忍城御三階櫓
〒361-0052 埼玉県行田市本丸17−23
城下町として栄えた忍藩の中心となった城、忍城は十五世紀(室町時代)、武蔵国の豪族であった成田氏によって築城された。
この地は、低湿地な立地で、北側には利根川、南側には荒川、どちらも利根川水流で反乱を繰り返す、荒ぶれた河川に挟まれた水の多い地域だった。
この地形を巧みに利用した沼地の城普請によって、関東きっての名城と謳われた城が登場した。
成田氏が支配するこの地は、関東管領上杉氏と相模国・武蔵国大名、北条氏の係争地であった為、どちらかに組みする形になり、成田氏寝返りを繰り返した。
忍城の北西に位置する属城の「皿尾城」は上杉謙信公の築城という説もあり、忍地域は激戦地だったと推定する。
広大な沼地には島や自然堤があり、これを巧みに利用した城は難攻不落と謳われる事になる。
豊臣秀吉による関東北条攻めでは、石田三成が忍城攻めの総大将として 忍城を水攻めにしたが、落城する事はなかった。
しかし、小田原城が落城した為、成田氏もまた忍城を豊臣方に明け渡した。
その後、徳川家康が関東に入封し忍城は四男、松平忠吉に与えられる事になった。
関ヶ原役の功績により、忠吉には尾張、美濃52万石が与えられた為、忍城とこの地域はその後、江戸時代が終わるまで 徳川の譜代大名によって統治される事になった。
広島県福山の阿部家の分家筋にあたる、阿部忠秋公が忍藩に入封した後は、当家から老中を何人も排出した為、岩槻、川越と並び、老中の城とされた。
忠秋公時代に城下町が整備され、元禄15年(1702) この三重櫓が完成する。
江戸後期から明治時代にかけて、忍藩は「足袋の町」として栄え、御城下には「足袋蔵」が現在でも点在している。
明治6年、廃藩置県により忍城も取り壊される事になった。
現在は本丸土塁などが、当時の痕跡を残しているのみとなったが、昭和63年(1988)に郷土博物館と共に御三階櫓が再建される事になった。

何と言っても見どころは、「門じゃな!」
唯一残っている忍城の門がある。
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